相模泰生:所信表明

運営通信

この度、ご推挙を賜り二代目泰永会代表をお引き受け致しました。

去る師走の十五日、我が恩師・野尻泰煌先生が天へと走り去るように召されました。思い返せば四年前、手相・四柱推命鑑定士でもある高天麗舟副代表に泰煌式姓名判断を学びたいと申し出て、東十条の道場扉を叩いたのも師走でした。
姓名判断を学びたいと申し出た私に野尻先生は「僕は書家だから書をやりながら学びなさい」と仰っしゃりました。高校時代に選択科目で書道を履修していたこともあり、違和感なく弟子入り。今思えば「テクニックとして姓名判断を学ぶだけでは良い鑑定はできない」ということを野尻先生は示されたのかもしれません。

翌年の師走。泰永会初の単独開催による国際交流展がハンガリーの博物館で決定致します。師は私に同行するよう勧めました。海外旅行など興味も経験も然程ありませんでしたが、いつになく強い思いを感じ、私も真摯に受け止め考えました。

二〇一七年四月、成田空港を発つ泰永会一行に私の姿があります。訪問期間中は寝食を共にし、より親密になった気がします。師は作品を海外に出展、収蔵されながら自身が国境を越えるのは初めて。博物館には老若男女の来賓、初めて観る書作品に瞳を輝かせるティーンエイジャーの姿、師共々強い感動を得ました。書くこと、そして見ることの達人である先生は、この異国の街の風景、人々との交流、様々な出来事を全身で味わっているようでした。
帰国から数日後、私は稽古場に呼び出されます。先生は私に養子縁組を結び、将来は泰永会の代表として跡を継ぐ意志があるかと問うのです。師を前に戸惑いを隠せませんでした。

更に二年半と少しを経た師走の八日。ロシア人水墨画協会からの招待で翌年五月に国際交流展共催が決定し、顧問の横澤悦孝氏の渡航前打ち合わせに同席致します。(新型コロナウィルス感染症の流行で延期)
その際、自分の隷書を黙視して開口一番「君は三段だね」と言われました。泰永会に級段位制はありませんが、高天麗舟副代表によると「私も三段で、野尻先生のおっしゃる二段は他の会では師範クラス。二段から人に教えられる立場」とのこと。松里鳳煌副代表も嘗て師範に指名され、自身の会をもち弟子をとるよう促されたと伺っております。今後は自分の事だけではなく後進の育成にも尽力せよと私は促された気がしました。

急逝されたのはその丁度一週間後です。

師とは丸四年間という短い期間でしたが、何十年も一緒にいたような深い縁を感じます。月に一度のお稽古、四度の国内展、二度の海外訪問、錬成会、勉強会、師はその度に一生懸命、私と向き合ってくれました。弟子の皆様全員に対しても同じです。師と出会い、書を通し、技術・経験・人として成長する機会を頂きました。先生には感謝してもしきれない程のご指導を頂けたことを糧に、新たな泰永会を皆様と一緒に作り上げていきたい所存です。

今は創設者の遺志を受け継ぎ、古典立脚でありながら、古典絶対主義とも異なる、時代と向き合いながらも流されない書を自国の誇れる文化として発信し、文化交流へ発展させたいという夢があります。三十二歳の若輩ではありますが、十九歳で弊会を立ち上げた野尻先生に比べれば、幸い私には松里・高天両副代表、事務局長の髙堂巓古、加えて海外顧問、他にも経験豊富な諸先輩に支えていただける恵まれた環境にあります。師の残してくれた縁なる遺産に感謝致します。

米ソ冷戦が終結した以後の平成は泰平の時代でした。令和になり、自然環境や外交の変化において永遠の泰平に揺らぎを感じることが誰しも多くなったと思います。ハンガリーでは会期中に学校の課外授業で博物館会場が使用されておりました。オーストリアでは師が質問に対して言葉ではなく、筆を握らせる姿に感動致しました。文化・芸術は国内および国外双方の国民感情の摩擦を軽減する潤滑油になりえると実感します。そこから発想し、ワークショップの場を設け、子供たちをはじめ市民の皆様と更に一歩深く心を通わせたいと考えております。

在りし日の師の背中を思い浮かべ、自身と比較しても真似できるものではありません。今は自ずと生じる相模泰生のパーソナリティにて“新生泰永会”を皆様と共に進展させたいと思います。

師から頂戴した「泰」の名前に恥じぬよう、また泰永会が「泰らかに永く」なるよう精進致します。皆様には尚一層のご指導ご支援ご鞭撻を賜りますよう心よりお願い申し上げます。

代表 相模 泰生

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